■ 本尊について ■

 阿含宗の本尊は色々有りますが、唯一物体としての信仰対象に成るものは「仏舎利」です。
仏舎利は「お釈迦様の遺骨」であり、肉体の一部です。
人は通常亡くなりましたら火葬をします。火葬をすれば残るのは遺骨です。その遺骨を祀る風習が
仏舎利信仰になっていてそれが今に於いても行われているのです。

 密教や大乗系には「仏舎利」は最高の位置づけを持っているものです。あの法華経や浄土のお経、
真言密教でも仏舎利は本尊として最高の位置であり珍重されるものです。またお経にも功徳が書かれて
おり、その功徳を信じて信仰する方が多いようです。

 阿含宗のHPを見てみましょう。 http://www.agon.org/about/b_01_04.html 

 そちらを見ると説明が簡潔に分かり易くあるので把握し易いと思います。
 主張は確かにそうなのですが、実はここに問題があります。

 阿含宗は「根本仏教である」という説明を行いました。そうするとその根本仏教を講じているのなら実は
仏舎利を信仰の対象、つまり本尊として扱うのはおかしいことに気がつきます。

 まず本尊とは何か、を見てみましょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/本尊 ウィキペディア 本尊より

 ここにありますように説明はその通りですね。ですが、根本仏教いわゆる初期仏教や原始仏教を見て
みると「本尊」は存在しないのです。

 そんな馬鹿な、と思うでしょうが良く考えてみてください。
 本尊とは「信仰の対象」であり、大事なものであるのはお分かりでしょう。
 阿含宗だけでなくても法華経系でも浄土系でもどこでも本尊というものがあってそれに対して信仰を
行うわけですから、逆を言えば「本尊無しでは信仰は成り立たない」というくらい重要なのです。
 
 ですが、本尊というのは仏教の観念です。しかも釈尊滅後に生じた釈尊が説かない「観念」です。
 
 極端な例えですが仏教以外の・・・キリスト教やイスラム教などもキリスト様やアラーの神を本尊とは
していません。信仰の対象とはするものの象徴だけであり本尊とはしません。
 そしてお釈迦様の生きていた頃に仏教を見てみましょう。するとその今私たちが在来仏教を行う上でも
また阿含宗でも講じている「本尊」というものがないのです。

 釈尊滅後は釈尊が仏教開祖ということで「本尊」としますが、釈尊ご自身が生きている最中は釈尊自身
が「本尊」なのですから「拝む」ということを致しません。自分が自分を拝んでどうします?ですから釈尊は
本尊というものを置いたなら、それは「自分以外を信仰すること」になるのでそれは無いわけです。

 次に釈尊は依存を排除しています。実際信者たちに「自分を拝むな」という風に戒めています。
釈尊を拝んで何かを得ようとしたり、それ自体を信仰にすることを禁じたわけです。
 そういうと「ご本尊様に五体投地をするじゃないか」という意見が出ますが、
それは釈尊に対する敬愛の礼の作法であって拝んでいるのではないのです。
つまり「礼」と「拝む」のは違うのです。

 我々が例えば知っている人に挨拶や会釈をします。それと同じなのです。それの宗教版だから拝んで
いると勘違いしてしまうのです。
 確かに釈尊が生きておられた時には釈尊が素晴らしいということで崇拝するかたがいたのは事実です。
しかし、そういう人にも「私をあてにするのではなく、私の教えを実践し解脱してください」と示唆されたの
です。つまり信仰という対象を釈尊に置くのではなく、教えと法の実践を行ってください。私はその真理の
教えと法を悟り伝える人なのです、という風に貫いていたのです。

 これがもし無かったら釈尊はたちまち「自分を拝め」「自分を拝めば功徳があるぞ」と踏ん反り返っていた
でしょう。またそういう記述があったはずです。阿含経にもそういう記述はありません。
なので、釈尊が「自分自身を拝め」とか「信仰対象にせよ」ということをされてない、というのは理解できる
と思います。

 次に岩波文庫にあります「ブッダ最後の旅」という大パリニッバーナ経を中村 元さんが訳されていますが
そこに釈尊が滅する際の言葉が記録されております。かの有名な「自灯明」もここに記されております。

 そしてその中に釈尊が亡くなった後の示唆がアーナンダに言われているのが書かれています。
それをみると分かりますが、ショックなことが書かれてあります。それは何か?
それは「私が亡くなった後は舎利に執着する無かれ」と言う内容を書かれているのです。

 どういうことか?つまり釈尊は生きていても、死んだ後も「自分を信仰の対象にするな」ということを言わ
れているということです。
もっと分かり易く言えば「仏舎利を拝んで何かを得ようとするな」つまり阿含宗で示唆しているような解脱の
功徳やら奇蹟を願うな、ということです。依存するなということであります。

 そうするとどうなるでしょう?阿含宗はもとより大乗経典でも謳っていた「仏舎利の功徳」が皆無になって
しまうではないですか。そしてその「ブッダ最後の旅」で釈尊はどう述べているかといえば、
 「舎利はその生前の方を偲ぶ象徴である」ということを言っています。つまり祀ってもいいがそれは信仰の
対称にするのではなく象徴として祀るのであり、その偲びを持って清らかな心になることを得るだけのもの
でそれ以外の何物もない、といっているのです。
分かり易くいいますと仏舎利カスケットをみて「あの中にお釈迦様の体(舎利)があるんだ。お釈迦様のよう
に清らかな心になろう」と偲ぶ程度だ、というものだということです。

 ですから仏舎利を高度の位置に置いてそれに対し色々な拝む作法やら儀式を行うなどそれは「後世の
人間」が考えて行ったものです。つまり阿含経が作られてそれ以降に偽作経典が作られた歴史は皆様ご存
知のことですが、それと同様に仏舎利信仰が「偲ぶもの」から「拝むもの」にシフトされていったわけです。
なので、お経にもその内容が網羅され含まれているのは偽作経典ばかりです。
スッタニパータや大パリニッバーナ、アーガマには仏舎利信仰の事を掛かれてないのは当然なのです。

 ですから管長の著書や座右宝鑑を見てください。いろんなお経の仏舎利功徳の解説がありますが、その
中に1つも「阿含経」からの引用が出てないことの事実を。
 阿含経を依経としていて仏舎利を珍重するのなら阿含経に記述があってしかるべきでしょう?
ところがその肝心の「阿含経」からの引用が無い。というか引用が出来ません。なぜならお釈迦様自体が
「仏舎利に依存すべからず」と言い渡されているのですから、阿含宗のやっている事項に反します。
つまり仏舎利を拝んでも何もないぞ、ということなのです。これは非常にショッキングな事項です。

■ 仏舎利」について ■

また阿含宗はスリランカから仏舎利を拝受した、と説明しましたがその内容にも問題があるのです。
まずはこちらのサイトをご覧下さい。

http://souko.digi2.jp/mede01/bushari01.htm  真正仏舎利の嘘
http://souko.digi2.jp/mede01/bushari02.htm  真正仏舎利の嘘2
http://souko.digi2.jp/mede01/bushari03.htm  真正仏舎利の嘘3

これらを見ると詳しく説明があるので分かると思いますが、非常に大問題であることが分かります。
つまり、真正仏舎利というのが定かではない、ということです。

 仮に本物だとしても先に述べたように釈尊ご自身が「仏舎利信仰の位置や内容」を亡くなる前に説明を
しているので本物の仏舎利でも阿含宗の言うような功徳など無い、という事になります。

 そうなると道場に安置されている仏舎利も我々ご宝塔も日泰寺にある仏舎利も本場インドにある本物の
仏舎利でも拝んで何かを得ようとしても「無駄」という事になります。

 ですからご宝塔のところで説明しましたがいくら「仏舎利だぞ」「駄都如意法だぞ」「成仏法だぞ」と言っても
何の効果も無いというのが見えてくるのです。
 このように信者さんは阿含宗の内容を知らずに信仰をしている、「させられている」ということなのです。

 良く吟味されて考察なさっていただきたく思う次第です。



 

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