教学について考える

ご宝塔編

 信者の皆さんは「ご宝塔」は命の次に大切なもの、というものだというのをご存知かと思います。
信仰の要であり、本尊であり、成仏法を引き出せる唯一のものです。
それはご宝塔を前に勤行をすることで「本尊供養」「先祖供養」「自身供養」ができるからですね。

「本尊供養」は勤行をまずご本尊様に捧げるわけです。ご本尊様に捧げた功徳によって成仏力が
発生し、その力が「先祖と自分」に働きかけて機能するのが阿含宗の勤行の理論です。

 成仏法が込められているのがご宝塔なのですが、そのまま安置しただけ、つまり飾っているだけ
では何の機能もしません。ご宝塔はつまり「勤行をして有効」というものなのです。

 管長の説明によれば勤行してその成仏法が「成仏力」に変わり発せられる。その成仏力が先祖
や信者自身に働きかけて機能するのです。なので、勤行は一日一回となっていますが毎日行うと
いうのが強制でないにしろ半ば義務つけられています。(推奨といってもいい)
勤行をすると先祖にその成仏力が届き、先祖が成仏してゆく力と成る。これが阿含宗で言う勤行に
よる「先祖供養」のシステムです。昔の説明ならば先祖には仏前に供えたご飯や供物よりも先祖が
ありがたがるというものだとよく言われていましたね。生きている人間の飯に例えていたものです。
先祖にすればもう亡くなられた方なのだから生きていたときのようにご飯を食べれるわけではない。
この信者の行う「勤行」こそが先祖へのご飯のようなものなのだ、と言っておられたのです。

 そして「自身供養」というのは自分を供養する、ということです。
自分を自分で供養する?というと変な感じがありますが、これは自分の持つ「悪因縁」の浄化と先祖
の霊障を解くための日々の供養が有効に成るということです。
 
 阿含宗では悪因縁も説きますが、霊障も説いています。
悪因縁だけ消滅できても霊障があれば不幸な運命に巻き込まれる。つまり阿含宗的にいうならば、
悪因縁を切り霊障を解脱しなければ不幸な運命にさらされるのだ、影響を受けるのだ、ということで
あります。

 なので、自分を供養する、ということは「悪因縁解脱」であり、それに付随するものは「先祖供養」
であり、本尊供養で本尊からの被庇を得るということです。つまり悪いものを取り去り、いい物を得て
幸せな人生を送ることが出来る、というもので、悪いものとは「悪因縁」「霊障」であり、いいものとは
先祖のお力と本尊の被庇(加持)力を得て好運(幸運)を得る、ということですね。

 この理論により阿含宗の勤行は「素晴らしいものだ」という主張をされています。

 しかし、それは果たして本当なのでしょうか?
阿含宗に欺瞞があるぞ、と私は言っていますがそれを知るためには良く検証しないといけません。

 まず、観音慈恵会の時期から今のご宝塔に変わるまで行われていた「千座行」というのがあります。
この行から見てゆかねば意味が分かりませんので見てゆきましょう。

 この千座行というのは「ジュンテイ如来様」を本尊に置き、悪因縁を解脱するために行を行います。
そのために昔は焼き物で出来た「黒いご宝塔」を前に勤行を行っておりました。これが後に阿含宗が
スリランカから「仏舎利」を分骨していただいたことを契機にご宝塔を変更したわけです。そして、勤行
の内容も若干変更されたのです。
 しかしながらベースはこの千座行ですから元から検証するにはこの千座行から見て行くのが良いわ
けです。

 http://agama.zouri.jp/houtentop.html

 これは千座行時代(後期)の聖典ですが、今の勤行を行っている信者さんであれば「ああ、ほとんど
一緒だなあ」というのが分かると思います。
 それはそのとおりで千座行がベースといったのはここにあるわけでして、尚且つ仏舎利尊の形式に
するために一部変更しているのですから、ほとんど一緒というのは当然なのです。

 そこで何が言いたいのかといいますと「本当に阿含宗の教学で言われているような効果があるのか
どうか」が問題となってくるのです。

 自分は20数年間欺瞞を知らず勤行を行ってきました。勿論途中に休んだこともありますが、最低でも
10数年勤行を行ってきました。
 そしてその結果あまり変化がないのに気付きました。それで「変だなあ」と思っていましたが、答えは
分からずじまいでした。
 しかし、欺瞞を知ってデータを見たら納得が行きました。つまり、この千座行(現在の仏舎利尊解脱
宝生行)は「よその教団のパクリ」であり、仏教の秘法でも因縁解脱法でもないのです。
極端な言い方をすれば因縁も切れないし、先祖供養もできません。また本尊の加護も定かではない。
つまり、全然趣旨の違うものを本当の仏教の示唆としてやらせているのです。

 これを知ってからは私は勤行を即やめました。それは「意味が無いからです」
なのでいくら長年やっても、また途中で休んでも結果が同じなのはここから来るのです。
 では、その中身とやらを見て行きましょう。

 http://www2f.biglobe.ne.jp/~fujiuchi/tosho.htm  日本佛教新聞社HP

 こちらのHPをスクロールして大分下のあたりに出てくる「宝篋印法塔(高さ約10センチ)」という箇所を
見てください。

 そして次にこの画像を見てください。

 http://agama.zouri.jp/toutop.html  阿含宗での旧ご宝塔(黒いご宝塔)解説P

 どうです?ほとんど同じでしょう?というか、主たる本尊が「ジュンテイ尊」に変わっただけで同じものだ
というのが1目で分かりますね。
 そして内容を見てゆくと、http://www2f.biglobe.ne.jp/~fujiuchi/houkyouin_1.htm でも解説されている
ように「災いをなくし福を呼ぶ法」のようです。
 これのどこに「ジュンテイ尊」がありその効果を示すのか、です。

 つまり管長がこの「宝篋印塔」に目をつけてそこにジュンテイ尊を「あてがった」というのが推測されま
す。それだけではなく行に付属している「和讃」もパクリなのです。次のリンクを見ていただきたい。

 http://agama.zouri.jp/ws1.html  千座行和讃の元となった本の画像P

 どうでしょう?特にその中の「線引きVer」http://agama.zouri.jp/wsn1.html を見てください。
ほとんどそっくり。いや、実際はこの和讃を元に管長が文章を変えただけですね。その様子が伺えると
いうものです。それだけこの元種本は如実に管長の行いを示しているかのようです。

 奥付をみれば分かりますが、観音慈恵会以前のものです。しかも「宝印教会」というところが行っていた
ものをパクっているわけです。これは由々しき問題ではないですか?

 またこの黒いご宝塔の中に入れる真言を書いた用紙がありますが、それも同じシステムです。
つまり、信者がこの陀羅尼が書かれた用紙の隅に「行者 OOOO」と自分の名前を書き込んで宗務に
提出するわけですがその用紙をたたんでご宝塔に入れて下部に封をする。そして誰のかが分からなく
なるので会員番号を記したシールを貼っておく。これを護摩修法にだして御霊入れをすれば完成です。
それから信者に下付されて信者は毎日このご宝塔を拝む(勤行する)のです。

 これが仏舎利尊に変わったら中に封入する用紙も要りません。管長の説明ですと真正仏舎利の前で
7日間修法したムーンストーンを仏舎利塔(カスケット)に入れて最後に修法したものを信者に下付する。
そしてそのご宝塔を信者が毎日勤行するわけです。

 この黒いご宝塔は「宝篋」ですから仏舎利を祀っているのと同等な意義があります。
 観音慈恵会時代は「真正仏舎利」を持っていなかったため、この「宝篋印塔」をご宝塔にしていたわけ
です。しかし後にスリランカから拝受したので仏舎利塔を模ったご宝塔に変更したわけです。
 ですから阿含宗的には教義的にはさほど変化はない、といえるのですが、問題はこの勤行自体が
「よその教団のパクリで、しかも仏教の秘法でもなく、ジュンテイ尊をあてがっただけのまがいもの」という
事実です。

 尚且つHPをみれば分かりますが一般素人でも購入することも祀ることも出来る代物です。
 これで「因縁解脱」?「先祖供養」?それらが果たしてできるのでしょうか?
 しかも先祖供養はこの「宝篋印塔」では示されていません。
 阿含宗の聖典のお次第で果たして「本尊・先祖・自身供養」が出来るのかは甚だ疑問です。

 また肝心の仏舎利についても問題があります。 http://agama.jounin.jp/bussyari.html
 こういう証拠が揃って勤行の発祥を知っても貴方は阿含宗の信仰を行えるのでしょうか?
 信教の自由は憲法で保障されているものの、私個人はちょっとやる気にはなれないですね。